とりすみコラム

大和水銀と金メッキ謎②

 大和金属鉱業(株)は、昭和34年には出鉱量1万トン余、水銀にして約25トンの生産をあげ、当時の国内水銀需要の約6分の1まで満たすまでになり、全国屈指の鉱山となりました。しかし、昭和39年鉱石をチェコスロバキアから輸入したが複雑な鉱石であったことから、製錬にによて亜硫酸ガスが排出するようになり、環境への影響が問題となるようになり、環境改善への設備改変や周辺農家への補償(米が枯れる等)の配慮も鉱山の存続には功を奏さず、1971(昭和46)年水銀の採掘、製錬事業から撤退しました。大和金属鉱業(株)は平成13年4月をもって、北海道で国内唯一の水銀リサイクル施設を操業する親会社の野村興産(株)に吸収合併され現在に至っています。

水銀は、赤色の辰砂(しんしゃ)を空気中で 400-600 ℃ に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じます。反応式「HgS+ O2 Hg + SO2」この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製します。2000年も前の人は、どうして、この事実を知ったのでしょう。水銀蒸気は目に見えませんし、蒸発してなくなってしまいます。見えないものを集めなくてはなりません。水銀の性質として水に解けませんから、管があれば、水銀蒸気を水の中を通しますと、泡が出ますからガスが通過したのが分かります。水銀蒸気を集めたものの見えないのですから、始末が悪いです。古代の人は、自然界にある水銀(液体)の利用法をどうして見つけたのでしょうか。

そのキーワードは、『金メッキ』にあるのです。古代では、金を取り出すのに用いられたのです。水銀の性質に、多くの金属を溶かして、アマルガム(水銀と他の金属との合金)を作ることができます。金を含む鉱石は金の融点である1064℃の温度を加えますと、解けますから、現在の方法を用いますとわけなく手に入れることができますが、当時は、そのような高温を得ることはできなかったと思われます。そこで、500℃ぐらいで水銀を用いますと、金を取り出すことができたことになります。西暦200年ごろの中国は,後漢の時代で仏教の信仰がひろまり,金メッキした銅製の仏像が盛んにつくられました。金と水銀と混ぜて溶かした金アマルガムを作り、これを仏像の胴表面に塗り、熱を加えますと、水銀は飛んでなくなり、金だけが残り、金メッキができますが、中国は既にこの技術をもっていたのです。

 『東大寺大仏記』によりますと、大仏に金メッキを施すのに水銀五万八千六百二十両,(約50トン)、金一万四百四十六両(約9トン)を用いたとあります。水銀50トンがどれほどの量であるのか、大和水銀鉱山の出鉱量の2年分です。当時、大仏の側で、炭火を焚いて、この水銀を飛ばしたことになりますが、この金メッキの大仏を作る作業を行った人は、水銀中毒で大勢の人が発病し、犠牲になったようです。これは、西暦749年のことです。金メッキは、いつから行われていたか分かりませんが、弥生時代からあったと思われます。やはり、水銀を探しに新宮に渡来したと思われる秦皇帝の家来の『徐福』が伝えたのではないでしょうか?

徐福公園

徐福

あらゆる分野の建築をクリエイト